数百億、数千億の
プロジェクトの
広告キャンペーンに携わってきましたが。
もう、野崎さんは、
大御所として
プロジェクトの後ろにいてくれたら
それでいいです。
そんな言われ方をしていた
矢先に、
あるプロジェクトの
競合キャンペーンのオファーが
携帯に届いたのは
3年前のある日のことでした。
それは、
そのプロジェクトの
メインクライアント、
日本を代表する
超大手デベロッパーの
プロジェクトリーダーの方からの
ご連絡でした。
そのプロジェクトの
広告キャンペーンの
競合プレゼンテーションに
参加してほしいということ
だったのです。
その超大手デベロッパーさんの
数々のプロジェクトを
僕は手掛けていました。
あるときには、
そのデベロッパーさんの
すべてのプロジェクトの
3分の1という
膨大の数の
プロジェクトを
手がけさせて
いただいていたことも
あったのです。
けれど、
リーマンショックを経て、
僕へのオファーも
気がつけば
少しずつ少なくっていた
そんな矢先。
そのプロジェクトは、
総戸数700戸超。
地下鉄月島駅
直結の
超高層タワーマンション。
東京メトロ有楽町線
月島駅。
まだ、
東京オリンピック誘致決定前の
難易度の高いプロジェクトの
ひとつでした。
競合プレといっても、
担当の広告代理店さんは
すでに決定していました。
その広告代理店さんと
タッグを組む
広告制作会社の
企画コンペだったのです。
クライアントである
デベロッパーさんの
大会議室での
オリエンテーションを
終えた日の夕方。
僕は、
その広告代理店さんの
担当責任者である
アカウントエグゼクティブの方と
ふたりきり。
銀座のオフィスの会議室で
まさに
膝をつきあわせ
話し込んでいました。
ここ何年間、
膨大な時間とエネルギーを
注ぎ込んで、
ようやく
担当させていただくことになった
今回のプロジェクトは、
絶対に
失敗することはできない。
野崎さんと
いっしょに組めるかどうかは
わからないけれど、
僕としては、
これまでいろいろな
プロジェクトをいっしょに
やってきた野崎さんと。
ぜひ、いっしょに
やっていきたいと思う。
ただ、
決定権を持っているのは
僕ではないから。
野崎さんに
頑張ってもらうしかない。
そう笑顔で語る
広告代理店さんの
営業マンの方と。
時間を忘れて
ディスカッションを
重ねたあと、
もう話すことはなく、
あとはこのプロジェクトを
支えられる、
大きな
キャッチコピーを
考えるだけですね、
と互いに確認し合い、
銀座のオフィスのビルの前で
かたい握手をして
別れたあと。
僕は、
深夜まで
ひとり会議室にこもり、
考え続けていました。
そうして
考え抜いた末に
辿り着いた言葉が
Timeless Tokyo.
月島駅直結
という
得がたい立地条件を、
ただ物理的に
捉えるのではなく、
そこに創造される
時間的価値を
時を越えるという意味の
“Timeless”、という言葉に
託したのです。
でも、
ほんとうに
この言葉で
いけるだろうか。
それから
2日間、
考えに考え抜いた末、
僕は
この言葉で
競合プレゼンテーションに
臨もうと決意したのです。
そして、
そのことを
いっしょに
会議室で激論した
あの広告代理店の方に
連絡しようと
メールを打っていたとき、
突然の訃報が
届きました。
あの広告代理店の
責任者の方が
心臓麻痺で
亡くなったというのです。
しかも、
亡くなったのは、
僕と別れてから数時間後。
僕が
Timeless Tokyoという言葉で
いこうと決意した
その時間とぴったりと
重なっていたのです。
そのプロジェクトを
最も愛していた人が
亡くなってから数日後、
僕は
いままでにない
ある想いを抱きながら
プレゼンテーションを
果たしました。
そして、
Timelessという言葉に
ネガティブな
イメージを感じてしまうという
多くの反対意見のなか、
Timeless Tokyoは
採用され、
キャンペーンがはじまったのです。
このプロジェクトだけは
どんなことがあっても
成功させなければならない。
そんな決意と覚悟と
ある使命感を抱きながら、
亡くなった
あの方の想いとともに
僕は闘っていました。
6ヶ月後、
当初の予定販売期間
18ヶ月を待たず、
3分の1という短い期間で
そのプロジェクトは
早期完売を実現したのです。
亡くなった方の
お名前は
五十嵐恒夫さん。
恒夫の恒は、
奇しくも
Timelessという意味に
ほかならなかったのです。
いままで
誰にも話さなかった
このエピソードも、
キャッチコピーの
不思議な
力のひとつです。
五十嵐さん、
Timeless Tokyoは
ふたりで生み出した
キャッチコピーです。
そして、
僕らの関係も
Timelessに
つづくことを、
僕は
信じて疑いません。
そして、
いまも
僕のiPhoneの
連絡先のいちばん頭には
五十嵐さんの
携帯の番号が
記録されつづけています。
1958年、横浜生まれ。同志社大学文学部卒業。
広告企画制作・株式会社エヌワイアソシエイツ、総合広告代理店・株式会社インターストラテジー、ソーシャルメディア専門広告代理店・株式会社ソルト等の経営者であり、広告プロデューサー、ブランディングプロデューサー、コミュニケーションクリエイター、ディレクター、コピーライター、コーチ、セミナー講師、作家、詩人として幅広く活動。大手企業の広告キャンペーンを手がけ、多くの商品をヒットに導く。30年以上の広告人としてのキャリアの中で培った、商品の隠れた可能性を見つけ、付加価値を高める独自のブランディング手法を確立。そのブランディングノウハウを広く提供し、著名人の撮影やクライアントのパーソナルブランディングをプロデュース。プロフィール構築からポートレート撮影、目標達成や成功をサポート。クライアントは多岐にわたり、カリスマブランディングプロデューサーとしても定評を集める。マイケル・ボルダック認定コーチ。経済産業大臣登録中小企業診断士。